山岸正裕市長【前編】市民の考え方・ヤル気こそが勝山を創っていく

雄大な白山連峰をバックに悠々と流れる九頭竜川。日本の原風景が残るまち福井県勝山市は、城下町としての歴史や伝統とスキー場などのレジャー施設、そして「恐竜のまち」として知られるまちです。市内にある福井県立恐竜博物館の来場者は今年度90万人を突破。現在も日々最高記録を更新し、成長し続けています。

そんな勝山市を引っ張るのは、山岸正裕市長。5期にわたって市民一体となる様々な改革を行っています。スキーはプロ級の腕前で、芸術にも精通しているという山岸市長。多彩な市長の側面にせまりました。

青春の栄養を押し込んだ勝山が、何よりも好き

冒険スキーヤーの三浦雄一郎さんと。スキーは山岸市長の原点です

── 2000年に就任して今期で5期目になられますが、はじめに市長を目指したきっかけはどのような想いからだったのですか?

私自身、勝山市で生まれ育って何よりも勝山が好きなんですよ。勝山は自然も人柄もよく、美味しいものもあって、冬には大好きなスキーができる。アウトドアが好きなので、勝山から見える山は全て登りました。子ども時代はやんちゃ坊主で、この勝山で好きなことをたくさん経験しながら育ってきたんです。そのようなコンテンツがたくさん詰まった勝山を、もっともっと日本で一番いいまちにしたいと思いました。

── 大学時代に4年間東京に出られていますが、そのときはどのようなお気持ちでしたか?

私が大学1年生のときに東京オリンピックが開催されました。当時は高度成長期の真只中。東京がどんどん変貌していった頃でしたから、やはり東京に憧れをもっていましたね。現在のようにどこにいても情報を受け取れる時代ではなかったので、自分から飛び込んでいって住んでみないとなにも分からないということもありました。4年間、都会生活を存分にエンジョイしました。

── 卒業してすぐに勝山に戻られたのですよね

はい。私の実家は繊維産業で織物を売っていたので、跡継ぎという運命的なものを感じていました。勝山に帰って2年間は、織物を学べる繊維工業試験場に行かせてもらいました。大学院のようなものです。若かったのでスキーも毎日のように行ったし、勝山を充分に楽しんで、青春の栄養を押し込んでから求められていた仕事に就きました。

東京の良さを吸収したからこそ気付けた、勝山の素晴らしさ

地元の小学校で給食をともにし、交流を深める山岸市長

── 上京する前の勝山と、戻ってきた後の勝山、市長の中で変化はありましたか?

大学時代は様々な地域に遊びに行きましたが、やはり自分自身がほっとするのは勝山でした。私が求めていたのは、自然の中で生活をしたり身体を動かすということ。実は絵画も会得していて、若い頃は画家かデザイナーになりたかったんです。それらの夢は捨てきれなかったけれど、勝山はさまざまな感性を吸収して自分で創り上げることができる素晴らしい場だと改めて感じました。

── 東京に出てみて、勝山への意識は変わりましたか?

一度外に出たからこそ気付いた勝山の良さがありました。東京で一冬帰らずに過ごしたことがあったのですが、勝山に帰りたくて帰りたくて仕方がなかった。東京は雪が降らないしスキーもできなくて、それが一番寂しかったですね。でも東京の冬にも良いところがあって、冬枯れの景色も趣があったし、関東特有のからっ風も味がありました。そして何より、情報も物品も求めるものがすぐに手に入ります。国立博物館や図書館に通っては、東京のいいところを全て吸収しました。それぞれの地域に良さがあるということが分かったからこそ、ますます勝山の魅力に気付くこともできました。

勝山市北谷町の物産販売施設を見学する。勝山の地域資源を大切にして、コミュニティビジネスへと発展させています

── そこから月日が経過して、勝山の変わってきた部分、変わらない部分というものはありますか。

高度成長期の中に当然勝山もいましたから、変わったことはたくさんあります。時代の波に押されて変わらなくていいものまで変わってしまって、残すべきものが残ってないという状況もありました。

例えば勝山市役所の隣には、かつては城跡があったんです。お城本体はないけれど石垣やお堀はちゃんと残っていて、そこへ渡る石の橋も階段もあり、風情があったんですよ。私たちは子どもの頃から天守閣を「お天守」と呼んで遊び場にしていました。けれど、それが取り壊されて市民会館ができた。そういうことは、今でも残念だったなと感じています。古き良き物を残して活かしていくことは、私の市政の根幹の一つにもなっています。

── これまでの4期の中で、良かったこと、嬉しかったことはどのようなことですか。

21世紀をひかえた2000年、「21世紀は市民と一緒に故郷勝山を創ります」と公約に掲げて選挙に出ました。今までは市政は市長が創る、職員が創る、議員が創る、そういうものだったけれども、そうではなくて、市民こそが勝山市の構成員であり、市民の考え方やヤル気こそが勝山を創っていくのだという考えを示しました。

人口25000人の小さなまちですから、直接民主制でいいんです。各自治区を回り対話集会などを行って、やって欲しいことやこれからこんな町を作りたい、市側はどう思っているかということを私が直接やり取りしているわけです。その中で政策のヒントがどんどん入ってくる。それをものにするということで今までやってきました。いいことと言えば、そういう観点からまちを変えたということでしょうか。

── 反対に、大変だったことや課題はどのようなことですか?

これからの課題はまちづくりです。例えば城下町時代の中心であった本町通りは、今も伝統的な町家が数多く残っています。この通りに観光客を呼ぶため、歩道の景観整備をしたり街並みを町家風の外観で統一したりして、城下町ならではの風情を醸成する仕掛けを行ってきました。今はまだたくさんの人が訪れているとは言えない状況なので、ここからさらに頑張っていきたいと考えています

まちに人を招待することは、家に人を招待することと同じ

街並みを整備している本町通り

── 市長にとっての「まちづくり」とはどのようなものですか?

たくさんの方にまちを訪れて欲しいと思っていても、例えば自分の家を考えてみると、ガタガタになって汚い乱雑な家に人を呼べないですよね。まちづくりは家づくりと同じです。現代の生活に即した快適な家に改造していかなくてはいけない。近年流行りの古民家は非常にしっかりとした風情を持ったものですが、古くてもいいと言っても、ただ古ぼけたままじゃ誰も帰ってこない。まちも全く同じだと思います。

その中には冷暖房もきちんとあって、隙間風が入らない、夏は涼しく冬は暖かい、そのような居心地の良い住居=まちを作っていかなくてはいけないと思っています。そういう風に手をかけていってこそ、帰ってこようかなと思える家ができるわけです。そういう意味で、設備や家並み、街路を整備して、今に至っています。

(Text:齋藤めぐみ)